私達の暮らしと税金
高校生の作文優秀作公開
京都府租税教育推進連絡協議会賞
二重で一つの税金問題

京都府立南陽高等学校 1年
成田 ひまり

 「究極の福祉ですよね。」刑務所で働く職員は、顔に複雑な笑みを浮かべてこう言った。

 この言葉を聞いたのは、私がテレビを見ていた時だ。特に意味もなく見ていたテレビ。だが、ふとした時、私はテレビに夢中になっていた。テレビに映っていたのは、高齢者が複数の職員の手伝いにより入浴していた場面だ。私は初め、介護施設か医療施設か、その類いの施設の取材かと思った。 しかしよく見ると、そこには「刑務所」という文字があった。どういうわけか、そこに映っていたのは刑務所の映像であったらしい。番組が進むにつれて、ペースト状にされた食事、受刑者用のオムツや薬が映像として流れてくる。そして、刑務所で働く職員へのインタビューで、「究極の福祉」という言葉を聞いたわけだ。

 私はその言葉に一人納得した。なぜなら、その表現があまりにも的確だったからだ。ではなぜ「福祉」という言葉では言い表せないのか。それに対する私の答えを考えてみた。

 まず「福祉」についてだが、これの大部分は税金によって成立している。税金の使い道として最も大きい割合を占めるのが社会保障であり、福祉はその要素である。現在、社会保障は私達に不可欠で、生活に浸透している。 ここで刑務所の話を思い出す。刑務所では、社会復帰を支援する目的で、「福祉」という考え方が取られている。これを知って私は一番に、福祉にも範囲がある、と考えた。ここに来てやっと、「究極の福祉」の意味が汲み取れる。 それはつまり、社会全体で見た福祉の中でも、刑務所での福祉は、福祉の範囲の最上位に位置している、ということだ。そして、もしその福祉の範囲を超えた時、それは「福祉の負け」と呼ばれるのではないか。この考え方に基づくと、「究極の福祉」と「福祉の負け」は紙一重にあるのだ。

 税金を増やすか、減らすか、維持するか、この議論が私達国民に最も身近な問題だと捉えられている。また、税金の作用を「受ける」よりも、税金の作用を「及ぼす」ことの方が、自覚されにくいはずだ。前者は、例えば公共サービスのことで、今までに何度も税金の働きを自覚してきたもののことだ。 一方後者は納税のことだが、自分の納税が、直接何かに働いているのかを明確に知る機会は少ない。しかし、この二つの働きを考えると、それはどこかで繋がるのだ。詳しく言うと、「自分が作用を及ぼして作る社会は、自分が作用を受ける社会になっている」ということだ。

 「究極の福祉」と「福祉の負け」が存在しているのは、作用を「受ける」と「及ぼす」の間に、意識の大きな乖離があるからだと思う。つまり、税金の増減と税金の使い道、という問題には、意識の隔たりがある、ということだ。 税金の表面的、内面的な問題を、二つの問題として捉えるのではなく、二重で一つの問題として捉えることが、私達に必要なことである。